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リストマーク ブルーインパルス 

2010年05月30日 ()
 
昨年の秋、お友達のブログのコメント欄にあった
1枚のプロフィール写真に目が留まりました。
青い空と海の間に真っ白い帆を広げた帆船の写真。
すぐにその方にお尋ねして、写真の船の名を確認できました。
思った通り、その帆船は「海王丸」。   
私の亡き父が若い頃に乗っていた練習船です。
この船の実物を、
私は昨年の7月、開港150周年祭で賑わう横浜港で見ていました。
この方(Kさん)も、横浜開港150周年祭でこの写真を撮られたそうです。
Kさんはいろいろな写真を日記にUPしておられるとのことでしたので、
喜んで、最初の方から順に見せて頂くことにしました。

閲覧してすぐ、同じ開港祭の記事の中にあったある言葉に、
私はくぎ付けになりました。
「ブルーインパルス」
航空自衛隊第4航空団第11飛行隊(曲技飛行隊)の愛称です。
私は知らなかったのですが、
ブルーインパルスは、横浜開港150周年祭で
展示飛行を行なっていたのでした。
Kさんは、編隊を組んで青空をまっすぐに飛ぶ
美しいブルーインパルスの写真を 撮影、記事にしていらっしゃいました。

「ブルーインパルス」
私にとってこの名前は、
「海王丸」と同じくらい父に繋がる言葉だったのです。


子供の頃、私はあるテレビアニメに夢中になって、
毎週かじりつくように見ていました。
父は、そんな娘をどんなふうに思っていたのか判りませんが^^;
自営業の父の仕事机は、当時テレビのある茶の間の脇にあって、
私の様子も、テレビに映るアニメの展開も、
ある程度把握していたんじゃないかと思います。
ある時、そのアニメの中に出てくる
「レッドインパルス」という特殊飛行部隊の名に、父が反応しました。
    ブルーインパルスという本物の飛行隊があるよ。
    浜松の自衛隊基地にある。  いつか見に連れて行ってやろう。
父はそんなふうに言ったように思います。
もしかしたら、父自身が
ブルーインパルスを一度見てみたいと思っていたのかもしれません。
へえー、本物があるんだ。 ブルーインパルスなんて、きれいな名前。
さすがに、アニメのように悪と戦う戦闘飛行隊ではないだろうと感じつつ、
ほのかな憧れとなって この「ブルーインパルス」の名は
私の心の奥に刻まれました。

その後、長い年月が過ぎて、
ブルーインパルスの話題は眠ったまま 私は大人になりました。
2、3度、この名前をテレビニュースで耳にすることはありました。
地方で行われたイベントや航空祭の映像で、
その姿を数秒目にすることもありました。
そのたびに、ほんのかすかに父のことを胸に浮かべましたが、
「約束」があったという認識には至りませんでした。


昨年の横浜開港150周年祭で
父の愛した帆船「海王丸」を見ることができたのは、
ある日偶然目にした小さな新聞広告のおかげです。
海王丸をこの目で見て、亡くなった父を感じて、
そしてその数ヵ月後に 目にした
小さなプロフィール写真が「海王丸」だったおかげで
Kさんの日記を見せて頂くことができ、
こんどはそこに 「ブルーインパルス」を見つけたのでした。

私は忘れていましたが、
父はあの「約束」を忘れていなかったのでしょうか。
    ブルーインパルスを見せてやろう。

空の上で、父は静かに笑っているかもしれません。 
「約束は果たしたよ」 と。






ブルーインパルス
Photo by こうたろう さん
     


こうたろうさん、ありがとうございました。



        
[2010.05.30(Sun) 05:30] 自分・家族(昔の話)Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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COMMENT

by 北海道のくま
ブルーインパルス
 結構あちこちで やってますので
  航空祭で 検索して 近くの飛行場を 探したら
でも すごく 混みますので 気をつけてくださいね

くまさん、ありがとう^^ by かなた
昨年函館でも飛んでいましたね? 何かで「函館」を検索したら、出てきました。
くまさんも写真を撮られたことがあるんですね?
やっぱり混むんですねえ、、
でも死ぬまでに1度はナマを見ないと雲の上で父に叱られるかな^^;

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リストマーク ピアノの思い出 

2010年05月12日 ()
 
5歳頃から11歳までピアノを習っていました。 
といっても、音楽教室のような所ではなく、個人のピアノ教師や音大生でもなく、
幼稚園の担任だった先生が教えて下さるということで
安いお月謝で通いました。
両親が私にピアノを習わせたのは「情操教育のため」だったそうです。
父はクラシック音楽が好きで、
私が子供時代にポピュラーなクラシックの名曲に親しんだのは
父のわずかなコレクションのレコードを小さなプレーヤーで聴いたおかげでした。
母も音楽好きな人で、小学校のママさんコーラスに参加などもしていました。
台所からはよく母の口ずさむ唱歌や讃美歌、外国民謡などが聞こえていました。

とはいえ、当時お世辞にも豊かではなかった我が家には
ピアノを買うお金も ピアノを置くスペースもありませんでした。
子供部屋の北隅の、壁に埋め込まれるように 小さなオルガンが置かれました。
小学校の教室にある足踏み式のぶかぶか鳴るオルガンではなく、
スイッチをパチンと入れて、鍵盤を押すとブ―と音の出る電気オルガンでした。

私は、このブーというオルガンの音が嫌だったろうと思います。
それに鍵盤の数も足りませんでした。
長いおさらい期間だった「エリーゼのために」を弾く時、
一番高音のところへくると2つか3つ音が出せませんでした。
おまけに音がのばせませんから、「エリーゼのために」を習っている時
この曲は全然きれいに思えませんでした。
後になって、テレビかレコードでこのピアノ曲の演奏を聴いて、
初めて「こんな美しい曲だったんだ」と思ったものです。
 
家での練習が嫌いだったのを全てそのせいだとは思いませんが。
ほとんど練習をせずにレッスン日(日曜の昼過ぎ、のちに土曜)になり、
吐き気を感じるくらいの重い気持で先生の家に向かうのが常でした。

ちょっと触れただけでブ―と鳴るオルガン、
しかもほとんど練習しない私の指では
週に1度だけ弾くピアノの鍵盤はまともに音を出してくれませんでした。
先生は「かなたちゃんはやさしく弾く」とかなんとかおっしゃって、
さかんにハノンをレッスン中に弾かせました。 
普通は家でやらせるのでしょうが、
家にピアノがないからですね。 でもハノンを弾かされている間は、
指は疲れましたが、気は楽でした。

苦痛だったのは、新しい曲に入る時でした。
私は楽譜が読めませんでした。 
新曲に入る時は譜面とにらめっこのまま。
五線譜の、「真ん中のド」の位置から、
ド・レ・ミ・ファ・・・と目で数えていき、
最初の音符のキーをそっと押してみるのはいつも脂汗ものでした。
先生は、どんな曲なのか聴かせて教えてくれることは
けっしてありませんでした。

そんなありさまで、
先生の家のピアノの前は 私にとって針のむしろでした。

6年生の時、学校で、市の水泳大会出場を目指した
水泳の強化訓練が行われることになりました。
毎日放課後と土曜の午後に練習があり、それに参加した私は
晴れてピアノのレッスンをやめることになりました。
その時の解放感、爽快感は今でも忘れません。
それまで6年間の子供時代の人生の中で、
唯一ずっしりと心の重荷になっていたものが
ようやく消えてくれたのです。 
羽が生えて飛んで行けそうな心持でした。

そんなふうに私とピアノとは歪んだ^^;関わりだったのに、
私はピアノ曲が、ピアノの音色が、大好きです。
いつからそう思うようになったのか、よくわかりませんが。
ピアノが弾けたらどんなにいいだろう。
自分の好きな、美しい曲を、
自分のこの手で演奏できたらどんなに素敵だろう。
一日中、時間を気にせずピアノを弾きたい。
毎日 好きなだけピアノを弾いて暮らしてみたい。


高校生の時、新築した我が家で、娘の私は個室が与えられ
父はその部屋に、
床を補強してピアノを置くスペースを作ってくれました。
けれど そこに黒光りするピアノが置かれることは
ついにありませんでした。



true love

 
 
 

[2010.05.12(Wed) 23:51] 自分・家族(昔の話)Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク れんげの花の満開の下 

2010年05月10日 ()
 
花窓1


花窓2


花窓3


遠い春の日
草いきれの中に身を沈めて
花影の向こうに
未来のような空を見上げた

あの日から 長い時が過ぎて消えた
まるで 一瞬の浅い夢のように



花窓4






 
[2010.05.10(Mon) 10:05] 自分・家族(昔の話)Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク ゆうちゃん 

2010年02月26日 ()
   
ゆうちゃんとは、中学3年と高校1年の時の 同級生。
幼馴染みというわけでもないけど、家もそう離れていないし
親同士も知り合いのようだった。
ゆうちゃんは関西の大学に進み、そのまま関西で就職して 関西人になった。
私は東北の大学に進んで、ゆうちゃんとの接点は無くなったはずだった。

いつの頃からかわからないけど、、
ゆうちゃんとは ずっと年賀状のやりとりが続いている。
1年にたった1枚だけ、1、2行だけの 葉書の通信。
最初の頃は元写真部の腕前を生かしてか、
風景写真の年賀状だった気がする。
ゆうちゃんが結婚して、子供さんが生まれてからは
しばらく息子さんたちの写真になった。 
2人の息子さんのどちらを見ても
「あ、ゆうちゃんの子だね」って一目で思うほどよく似ていたね^^
さすがに大きくなってからは、
年賀状のモデルになってくれなくなったんでしょう。
最近はごくふつうの年賀状に1行2行、書き添えてくれている。

阪神大震災の時は 双方の実家を介して連絡をとったよね。
ご家族全員無事で、がんばってるって、返事が来たような。
何かお見舞いを送った気もする^^;

そんなゆうちゃんと、どういういきさつでそうなったか
全然覚えていないけど^^;
社会に出る日が数ヵ月後に迫った大学4年の時に、
中学の担任だった先生のお宅へ ふたりで行ったことがある。

私たちは それぞれ
先生に相談したい、先生の言葉を聴きたい と思うことがあった。
なのに先生のお宅では、ゆうちゃんはちっとも自分の話を始めない。
「間」のあくのが居心地悪くて、私はひととおり自分のことが終わった後も
なんだかそれらしくとり繕いながら、先生に何やら話しかけていた。
先生はきっとそんな私をお見通しだったと思うけど、、
丁寧に私の「どーでもよさげなこと」に応えて下さっていた。

帰り道、私とゆうちゃんは地下街のフルーツパーラーでひと休みした。
私はゆうちゃんに尋ねたよね、
「ゆうちゃんも先生に相談したいことがあったんでしょう?なんで話をしなかったの?」
ゆうちゃんは
「いいんだ。かなたさんと先生が話してるのを聞いたら、僕は話す必要がなくなった。
 わかったからいいんだ。」って。
うー、あんな私の「半分どーでも」悩み事相談聞いて、わかったって、何が~??
「ゆうちゃんの相談って、何だったの?」
訊いてもゆうちゃんは笑うばかりで答えてくれなかった。

今年のゆうちゃんからの年賀状には
 「お袋が 独りで 静岡 にいるので時々、見にいっています。」 と書いてあった。
同じだね、私もおんなじ状況^^ そういう年頃になったんだね。

ゆうちゃんも時々帰省しているのなら、思い切って連絡とって、
また二人で先生に会いに行こうか。
去年久しぶりに先生の個展に出かけたら、お会いできて、先生とても喜んで下さった。
そろそろ、もう会えなくなるかもしれないよ。 
二人で行ったら、いっそう喜んで下さると思う。

私からの年賀状には 「お互い“サバテン”でがんばろ!」って書いたけど、
“サバよみ十歳”なんて意味、解るわけないね^^; 
もしわかったら、ちょっと笑ってくれたかな。

ゆうちゃん、 元気でいて! 
来年もまた、年賀状くださいね。




[2010.02.26(Fri) 01:23] 自分・家族(昔の話)Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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